日常のカケラ

場面緘黙とASD不登校次男やおっとりマイペースの長男の記録

ASDで場面緘黙の次男が小学校を卒業する



この記事は2020年3月25日にnoteで書いた記事です。

 

 

 

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 次男のことを書こうか書かないか悩みながらも明日の卒業式のこと考えるとソワソワして眠れないので、文字に書き出して寝ようと思う。

 うちの可愛い可愛いお坊ちゃまの次男が小学校に入学してからもう6年も経つのかと思うと感慨深い。

 小さい頃は良く寝て良く食べて歩くのも早くて教えてないのに靴はいたり、服着たりとか卒なくできる子だった。手がかからなくていい子だった。

 しかし、長男と比べるといつも検診で引っかかりまくりの子でもあったのだ。

場面緘黙症とわかるまで

 最初は6か月検診。体重が少なすぎるということで要観察になった。その頃、私は謎の高熱に悩まされていたので母乳の問題なのかな?とミルクに変えたけれども次男は成長曲線の下の方を走っていた。

 検診のたびに、二本の歯が繋がって生えてくる癒合歯を指摘されたり、陰嚢(たまたま)がお腹の中から降りてこないかもしれないと言われたり、 体重や身長でも常にひっかかっていた。

 3歳児検診では言葉の遅さを指摘され、心理相談を定期的に通うことになった。次男の言葉はごにょごにょしているけれども、私には大体わかっていたので問題ないと思っていたのだ。

 そして、幼稚園に入園し、先生やお友達と話さないことを担任から指摘され、巡回している心理の先生と話すように促されるも「お母さんがおおらかだから大丈夫でしょう」の一言で終わったのだ。幼稚園のイベントごとのお遊戯会や運動会はすべて棒立ちのまま一年を終えた。

 長男の小学校入学に合わせて私の地元に戻ってきた。金銭的な問題と延長保育ができるキリスト系の幼稚園にしたのだ。これは次男にとってはすごくよい環境になった。

 この頃、元保育士で看護師をしている妹から「こんなに話さない子は何か障害が隠れてる可能性があるよ。」と指摘された。「え?そうなの?じゃあ、今すぐ保健センター相談しに行こう。」と言われたその日に保健センターへ相談しにいった。

 それから小学校入学するまで保健センターの定期的な面談をすることになった。

 その頃から、話さないということをネットで検索していくうちに「場面緘黙症」という言葉にたどりついていた。今も会員として参加しているかんもくネットにある資料を印刷して幼稚園に持って行ったのだ。 かんもくネット〜場面緘黙児支援のための情報交換ネットワーク団体〜 kanmoku.org

 その資料を読んで、その通りに対応してくれる幼稚園のおかげで、2年の幼稚園生活を楽しく過ごすことができたのだ。

 誰とも話せなかった次男が話すお友達が2人できて、話せる先生が1人できたのだ。

小学校に入るまでの準備

 小学校に入る前に、学校に行く機会をたくさん作ろうと長男の方でPTA役員を引き受けた。クラス役員でポツンとしそうな気がしたので、あえて本部役員の書記を立候補したのだ。パソコンが得意だったのがその勇気を持たせてくれた。

 本部役員をすることで校長や副校長と話す機会が増え、PTAのバレーボール大会の練習やイベントや会議などで次男を学校に連れていくことができた。このときに一緒に本部をした人の子が今でも長男と大の仲良しである。

 その流れで次男の不安を減らそうと校長にお願いして学校の授業の見学もしたのだ。そして、場面緘黙症の資料も幼稚園と同じように渡したのだ。

全く違う体制の小学校に戸惑うばかり

 準備万端で小学校に入学した次男。

 6月ごろに行われる保護者面談のときに衝撃の事実がわかる。担任には次男が場面緘黙症だということは伝えられておらず「特に問題ないですよ?」という対応であった。

 実際に1年から3年までサポーターという担任のサポートをするスタッフがいるので、次男は3年間とくに問題なく過ごしていたのである。

 毎年、面談のたびに担任には次男が場面緘黙症であるということは伝えてはいたが、そのことを次の担任に申し送りされることはなかった。

 4年生になり、サポーターがいなくなったことを機に次男は徐々に調子が悪くなっていった。サポーターが居ないせいだけではなく、問題のある学年であったのは否めない。

 登校しぶりが始まり、仕事を早退したり休んだりして付き添っていると、1時間担任が怒って授業にならないときも多かった。担任が怒っているのはもっともな理由であり、児童が担任の言うことを全く聞かない状況であったのだ。

自閉症スペクトラムと診断される

 私自身、子どもに無理強いをすることは嫌いである。どんなに小さくても本人の意思を尊重したかった。それでも、仕事もあるため登校はして欲しいし、本人もこの時期は登校しなきゃ!と思っていたようだった。

 近くの不登校の子の診療をしている小児科に予約を取って受診した。

場面緘黙症の子には自閉症スぺクラムの子も多くいます。検査してみますか?」と言われ、親の問診でできるAQという検査を受けた。その結果、次男は「自閉症スペクトラム」と診断されたのだ。

 すがるように「子どもが学校行きたくないと言ってる場合どうしたらよいですか?」と聞いてみたところ「行きたくないって言ってるなら行かせなくていいよ。この子はここに通う子(服薬が必要なしという意味)ではないから定期受診はいらないよ。」と言われ診察が終わったのだった。

 その診断を持って通級の利用を開始したのである。

傷ついてボロボロになって…不登校を選ぶ

 通級の利用を開始したものの次男は学校での緊張が高すぎて不安で疲れ切っていた。そして、4年生で少しずつ慣れていた相談員、養護の先生、通級の先生、担任の先生が5年に進級したときに全員異動していたのだ。

 不安と緊張が高い次男にとっては、またスタートラインに立ったようなものである。

 この頃、私は安定した支援が受けられない教育のシステムに絶望していた。教育現場に何かを求めるよりも福祉の現場に求めようと放課後デイサービスの利用を開始したのである。

 この頃、私は職場を異動しており、新しい仕事をこなしながら、必死に次男にとってどうしたらよいのかを悩んでいた。

 福祉の現場であれば、ちゃんと次男の障害の理解をしており、親の気持ちに寄り添った支援をしてくれると思っていたのだ。

 しかし、思ったような支援は受けられず、私の親として「もっと子どもに関心を持ちなさい。子どものわがままに負けちゃだめ!」と態度を叱責をされることとなった。ちょうど同じようなタイミングで副校長から「子離れしてください」と言われたのだ。

 私はそんなにも悪い親なのだろうか…。

 と、自信と不安で潰れそうになりながら次男との関りを模索していた。

 私がそんな状態になっている中、次男は毎朝迎えに来てくれる友人がいたのでどうにか登校することができていた。それでも、その子が来るまで朝は起きれず嫌だという態度をしながら不貞腐れて登校する状態であった。毎朝毎朝そんな態度みて私は憂鬱な気分になっていたのだ。次男もそうだったのだろうと今は思う。

 5年生はその友人のおかげで皆勤賞となった。でも、それは次男にとってなんの価値もないものだったのだ。

 6年生になり…また、相談員が変わり通級の担任も変更になった。迎えに来ていた友人も負担だろうと思いお断りした。

 そこから毎朝、次男と私の心をすり減らすやりとりが毎日続いた。

 次男は何度も家出を繰り返し、体を傷つけたり、死にたいと言ったり、死ぬなら一緒に死のうかと出かけたこともあった。

 私が育てるとこの子は不幸になると施設に預けようと思ったことも何度もあったし、全寮制の学校に入れようとも思った。

 私がだめな親だから。子どもに甘いから。私が間違ってるから。周りが言ってることが合ってるはずだから。

 何が正しくて何が悪いのか。もうわけわからない状態まで追い込まれいた。

 仕事でも追い込まれていたので、もう何も手がつかない状態になり休職をした。それでも学校に行かそうと努力していたのだが、ある日プツっと私の中で何かが切れたのだ。

 「学校に殺される。」

 そう思ってから、学校に行くことをやめた。

貴方の人生に学校は責任を取ってくれないから、私が貴方の人生の責任をとるから生きて楽しく過ごそう

 次男にそう言ったけれども、次男が自分自身を否定して生きてきた時間が長すぎて現状を受け入れるまでにすごく時間がかかった。

 生きる意味や目的なんかなくてもいいのに、生きることがつまらなくて死にたいと時々ぼやいていた。

 それでも、「お母さんはあなたのことが好き。だから生きていて欲しい。」と毎回言い続けてきた。

 最近はその言葉も素直に受け止めて嬉しそうな顔をするようになった。みんなと違う道を歩むことに対しても落ちこぼれという感覚はなくなってきた様子である。

 そんな次男が小学校を卒業するのである。

 次男と私にとっては辛い思い出ばかりの小学校生活だったけれども、次男が卒業証書を貰いに行くと言ったのでその気持ちを尊重して卒業式が終わった後の学校に行くことにしたのだ。

 最後のけじめ決めてきます。

 さて寝るか。

 

2020年3月25日